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Okeno Catanikus +T

非電源卓上遊戯の話題をつらつら綴ったり綴らなかったり。

What is TOURON-KAI.

久々に筆を執る。

ゲームデザイン討論会というものがある。これは現在、デジタル・アナログ関係なくゲーム有識者を中心として、主にTwitter上で行われている自由参加形式の討論会である。2013年11月から不定期に行われているこのオンラインでの討論会は、2016年1月の時点で16回を数え、それとは別に2015年に神保町の奥野かるた店で一般公開版として公開ディスカッションを行っている。不定期に行われる(しかも予告も無く急に始まる場合がある)ので、リアルタイムでタイムラインを追ったことは2、3回しかないものの、過去回における主要参加者の発言はトゥギャッターでまとめられているため、そちらで討論の流れを大体追うことができる。討論のテーマはゲームに触れ合ったことにある人間であれば興味を引く内容で、ボードゲーム制作に携わっている身としては、非常に有益な内容であると認識している。今回はその一般公開版の第2回ということで、駒込にある東洋文庫に足を運んだ次第だ。

まず基調講演として会の趣旨と東洋文庫についての解説が行われた後、前半を『ゲームで歴史的思考力を育成しよう』、後半を『ゲームと歴史学の遭遇』と題して行われた。前半の討論ではデジタル・アナログ問わずゲームは教育ツールとして成り得るのかという観点の元、実際にアメリカで開拓時代の歴史教育に使われているゲームの紹介や、著名な歴史シミュレーションは歴史教育に活かせるのか、といった話題が挙げられた。後半は実際の歴史とそれを取り扱ったゲームの歴史的観点における差異や変遷、ゲーム遊ぶという目的の差異といった話が展開された。また、前半と後半の間に30分ほど、『カタン アメリカの開拓者たち』の公開プレイが行われ、ゲームデザインと史実の関係についての話もあった。

この会において自分は、内容をその場で噛み砕いて理解し、自分の考えとして落とし込むことに注力した(ログは後で上がるだろうからと高を括ってメモをほとんど取らなかった。今少しばかり後悔している)。研究者や識者だからこそ言い得られるであろう観点からの発表はどれも興味深く、非常に刺激的だった。小休憩の間に、一緒に来ていた相棒と内容についてのお互いのスタンスを話したり、比較したりするのも楽しかった。

特に印象深かった話が2つある。1つはアメリカカタン公開プレイの際の、『基本的に西に進路を取った方が有利になる』という話。アメリカカタンは東側から開始して、西側に多大なスペースが広がっている(盤面を見れば一目瞭然である)。これは要するに未開拓地であり、資源の宝庫であるわけだが、これは実際のアメリカ開拓史でもそのような動き(東海岸から西海岸への開拓)があったからこそ設計されたのではないか、という話であった。盤面のデザインが史実に基づいているなら、確かにそれに則った方が有利になるだろう。そこにはゲームデザイナーの明確なメッセージが含まれており、それを汲み取る、あるいはプレイ後に気付く事で、アメリカ開拓史の流れを(非常に大まかながらも)掴むことができるのだ。これは前半の歴史的思考力の育成というテーマにも被っていて、本会の名に相応しい時間だったと思う。

もう1つは目的差異の話で、ゲーム『を』(そのものを楽しむために)遊ぶのか、ゲーム『で』(『何か』を得るために)遊ぶのかという内容。例えば勝利による栄誉の獲得、あるいは賭博による儲けなどが発生した際に、本来は前者であるはずのゲームを遊ぶという行為が成り立たなくなるという内容で、自分も身に覚えがあるので耳が痛かった。しかし、盤を複数人で囲む以上は(協力型ゲームでない限りは)勝者や敗者という概念が発生してしまうため、もはやそれを得るという状況からは逃れられないのでは、純粋にゲーム『を』遊ぶというのであれば、それはソロプレイ以外ありえないのでは無いだろうか、という辺りまで思考を巡らせた。これについてはもう少し考えてみたい所だ。

また、どこかの話の際に出た、フォン・ノイマンの『チェスはゲームではない、答えの分からないパズルを二人で解いているのだ』という言葉が印象深く残っている。なるほど確かに言われてみれば、完全アブストラクトゲームは見方を変えればそうとも言える。ただ、言われるまで(この言葉を聞くまで)そうは考えなかったし、そういう考え方、視点の変換ができる辺りがやはり天才と呼ばれる人間なのだろうかと思った。

さて、会自体は上記の通りとても有意義であった。しかし、今回のこの会を掲げられたその名の通りに見た時に、果たして本当にゲームデザインの『討論会』であっただろうかと、傾げた首を戻せずにいる自分が居る。

『討論会』というものに(観覧ながらも)参加したのはこれが初なので、認識の齟齬が無いかを確かめるために、ここで辞書を引いてみよう。『討論(ディベート、またはディスカッション):ある事柄について意見を出し合って議論をたたかわせること』とある。今日の会においては、上記のような話が発表された。だが、ほぼそれだけであった。テーマに対し研究結果や論証、あるいは考えや展望を提示していったのは良いとして、その意見に対する更なる議論が起きなかった。一般参加者がそうであったのではなく、発表者以外のパネリスト、コメンテーターにおいても、殆ど発言が無かったのだ。唯一、遊戯史学会の草場氏が、会の最後に司会から全体の総括を求められた際、(時間が無いと毒を吐きつつも)今までの論を覆す発言をした(ゲームと教育の共存は可能なのでは、という発表の流れに対し、明確に否定の意を示した)。このラスト10分の草場氏の発言でもって、初めて今回の会における明確な『対立意見』が出たのである。本来はテーマに対する一意見とそれに対する意見が初期の段階で出揃い、それを議論しあうことで『討論会』というものが成り立つのでは無いだろうか。そういった点で、素人目から見ても今日の会は『討論会』ではなく『発表会』であったと言わざるを得ない。

発表(発言)者に偏りがあった(自分がボードゲーム界隈の人間であるからバイアスが掛かっている感は否めないが、主観的事実においてそうであったと言えるのである)。活発に発言をしていたのは大学教授の方々で、前述の草場氏やドロッセルマイヤーズ代表の渡辺氏は会中殆ど発言をしていないと記憶している。また、発表の合間にも司会者が「特別に5分頂いて」と、観客席に居る教授に突発的な発言を求めたり、教授や著書の紹介をしたりで、時間が大幅に押していた(その結果が前述の草場氏の『時間が無い』という発言に繋がる)。この司会者も大学関係者であることから教授に頭が上がらないのは分かるのだが、こういった会である以上しっかりタイムキーパーとして動いて欲しかった(もしそういった理由で出演者を公平に扱えないのであれば、司会者・タイムキーパーとしては失格であるし、それならば第三者に委託するべきだ)。そもそも発表者自体があまり他の登壇者の発表や発言の機会を意識していなかったようにすら思える。司会者が最初に「この討論会は言いたい事を言い合うだけ」とジョークとして言っていたが、それはTwitter上だからこそ(後で整理することができるし、反応してもしなくても良いという暗黙の了解があるからこそ)言えることである。そもそも特定の出演者以外に発言の時間すら与えられないという点においても、また『討論会』とは言い難い。

草場氏の発言後、突発で登壇した大学教授が草場氏の発言に反論を行い、『これこそが討論会…!』と期待が高まった所で「続きは懇親会で!」と締めるのもどうかと思った。何度も言うが、それこそ13時半から17時半の間でやって欲しかったことだ。なら懇親会に参加すればいい、と言うのであれば、酒が飲めないor参加費を支払えない人は討論を見ることすらできないのかと反論させていただきたい(残念ながら自分はその両方に該当してしまうのである)。

『討論会』と銘打ちながらの『発表会』に肩透かしを食らったものの、そこさえ無視すればパネリスト個々の発表は(これも何度も言うが)とても素晴らしかった。こういった場がもっと展開してくれれば嬉しい限りだが、それぞれの時間の都合が合わないと開催できない事を考えると、次は半年後あたりになるのだろうか。さておき、思う所は多々あれど良い会に参加できたと思う。また次回があれば参加したい。

 

 

f:id:conekoneko:20160207154219j:plain話は変わるが、東洋文庫の書庫が大変美しかった。こんな場所があるなんて知らなかったと感動した。会の内容云々を抜きにして、今日この場所に来られたその事だけで儲けものだと思う。日曜日なのにも関わらず人があまり居なかったので、もともと穴場スポットなのだろうか。また近いうちに、本棚を眺めに足を運んでみたい。

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